先祖を祀る

お仏壇へのお参り

東光院萩の寺住職 村山廣甫

なぜお仏壇をおまつりするのか

お仏壇とは、読んで字のとおり仏さまのいらっしやる場所という意味です。仏さまとは「仏陀(ぶっだ)」、つまり真理に目覚めて迷いの生存より解脱(げだつ)し、何ものにもとらわれない心の自由を体得した人であり、人間の理想を「完成した人」を指す言葉です。

仏教では、あなた自身が仏になるべき性質をもっている、と説いています。残念ながら、私たちはほとんどそのことに気付いていません。複雑多忙な現代の競争社会を生き抜いていくために、他人を押しのけてでも自分が有利になろうとするエゴ(利己主義)がむき出しになり、私たちは他人と衝突ばかりを繰り返しています。人間は例外なく誰よりも自分がかわいいからです。エゴは私たちを盲目にし、そのためにお互いを苦しめ合うことが多いのです。

しかしそうかといって、私たちは四六時中エゴをむき出しにして生きているわけではありません。愛児を育てる母親のように、自分のことは忘れて他人のために尽くしたり、心配したりすることもあります。難民救済あるいは独居老人への介護ボランティアのような、自分と他人という区別すら意識することなく、みんなで協力して何かよいことをするということもあります。そうしたときの人間の笑顔はとてもすばらしいものです。実はそれが仏さまの顔なのです。

仏さまというのは、自分と他人とをいつも平等に見て、みんなの幸せのために考え、行動する人のことです。エゴを越えたやさしい心、言葉、行動、それが仏さまなのです。誰にでもそれは、やろうと思えばできることなのです。ですから、仏教では「あなたも仏さまになる人なのですよ」と説いているわけです。さとり(悟、覚)を開くとは、この人間性の最も尊い根源である「仏」を、自分のうちに再発見することにほかなりません。

ところで、この「仏」になるべき性質をもっている自分自身にふさわしい生括を送るためには、私たちは常に自分の心を見つめ、エゴによる言葉や行動を反省し、理想とする仏さまの世界に思いをこらす必要があります。それになくてはならないものがお仏壇です。

仏教の本を読んで「なるほど」と納得しても、お坊さまを訪ねて話を聞いて有難いと感じいっても、しよせんそれはカルチャー(教養)でしかありません。その「なるほど」や「有難い」思いが日々の生活の実践に結びついたとき、初めてそれは信仰となり、宗教と呼べるものを持つ人になるのです。

信仰の生活には、お仏壇は不可欠なものです。私たちの理想を実現された、釈迦牟尼仏(しゃかむにぶつ)などの仏像をお仏壇に安置し、それと向き合うことによって、私たちも「仏」になるべき生命(いのち)をもっているのだと、いつも思い起こすようにするのです。

さらに、私たちは自分ひとりの力で生きているのではなく、ご先祖をはじめ多くの人々やもののおかげで、生かされているのだということを自覚し、感謝の心を養う場でもあるのです。

これがお仏壇をおまつりするいちばん大切な意義です。ですから、お仏壇はご先祖をまつるもので、わが家では、まだだれも亡くなっていないから、死者のない家は置く必要がないと考えるのは、まったくの誤解です。あなたも、一日に一度はお仏壇の前に正座して手を合わせ、じっと心を澄ませてみてはどうでしょう。そこには、「他人を思いやる心」、「ものを大切にする心」、「すべてに感謝する心」が自然と生まれてきて、あたたかい家庭がつくられます。

たとえば、お仏壇に代わるものとして曹洞宗では、親と同居しないで核家族化した若い世代のために、より簡単におまつりができるよう、三尊仏の屏風(写真)を用意しています。

ご先祖を尊び、ご先祖を通して「仏」に出会う

雲は山に帰り、鳥は巣に帰る
秋の木(こ)の葉(は)は大地に帰って
夕焼けの空が静かに輝く
人は一日の務めを終えて、
わが家に帰り
生涯の仕事を果たして、故郷(ふるさと)に帰り
我が子を育て終わって親の懐(ふところ)に帰る
人生の落ち着きは此処(ここ)にある
迷うた道も本筋に戻り
乱れた足も本調子になり
狂うた気持ちも本心に立ち帰る
魂(たましい)の落ち着きが此処にある
「帰家穏坐(きかおんざ)」するのが仏の教えである
佐藤泰舜著「生活の修証義」より

上述の詩には、わが国古来からの素朴な祖霊信仰と、仏教の教えとが見事に融け合い、ご先祖を尊び、それを通して仏さまに出会うさまが述べられています。

巷(ちまた)では俗に、死んだ人を「ほとけ」と呼んだり、人が死ぬことを「成仏した」と言ったりします。亡くなった親族は、しかるべき供養をすると、いわゆる「ご先祖さま」という一種の「家の守り神」になります。亡きご先祖はみな仏になられたものと考えられ、それを供養するためにあるのがお仏壇であると広く思われています。

この場合、お仏壇はいわば、現在の自分が存在するルーツをおまつりする場所であるともいえましょう。そこは自分自身が依(よ)って立つ、「生命(いのち)の故郷(ふるさと)」なのです。

ご先祖を尊び、祖霊のいらっしやるお仏壇に、自分自身の生命(いのち)の根源(みなもと)を見い出すとき、今生かされていることの不思議さに感謝して、その故郷の風光を美しくお飾りしようと思うのは、人の心の自然の動きといえましょう。過去より未来に至る自分の未来が見えてきます。この美しい故郷から来て、またこの故郷に帰っていくのだとの悟(さと)りを持つ安心が、ほんとうの生きる力を与えてくれることでしょう。日々の生活に悩む心に平安が訪れるのです。ここに、お仏壇は、仏さまを供養するとともに、亡き人に出合い、対話する聖なる場所ともなりました。

このようにお仏壇は、私たちがご先祖さまと対話する場所であるとともにみ仏のおわします自分自身の生命の根源を見せてくれる永遠の故郷でもあるのです。すなわち、人間本来のエゴむき出しになりがちの日常生活の中で、本来自分自身がもっている尊い「仏」の性質を磨き出すための信仰実践にはなくてはならないもの、それがお仏壇なのです。

うれしいにつけ、悲しいにつけ、いつでも心から手を合わせ、それぞれの人格を磨き、清らかな家庭をつくる一家の中心としたいものです。家族みんなで一日一度はお仏壇を礼拝する習慣を身につけましょう。必ず家庭の中が明るくなってくることでしょう。

家庭の中心となるお仏壇を一家に一つ

長男以外は仏壇を持たなくてもよいとか、うちは亡くなった人がいないので仏壇は必要ないとする考え方は、前述しましたように、まったくの誤りです。ご先祖のいない人など一人もいません。誰もがいつでもお仏壇を持つことができます。家族の心の拠り所として、家族みんなが手を合わす、お仏壇の存在は「ほとけの子」としての私たちの心の落ち着き、魂の落ち着きに裏打ちされた明日への希望と前進を約束してくれることでしょう。

合掌
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