先祖を祀る

ご先祖さまのいない“私”はない

東光院萩の寺住職 村山廣甫

私たちは、桃から生まれた桃太郎のように、何の脈絡もなしにこの世にポッと生まれ出たわけではありません。
東光院の萩のように、私たちは、ご両親あるいはそのまたご両親という、溯れば際限のない数多くのご先祖さまの“思い”によって、意義ある人生を送るために、今、ここに尊い生命を授かっているのです。

もっともご先祖さまの“思い”を推し量って、その“思い”に応えたいと考えるのは、親の恩を知るものにとっては当然のことともいえましょう。しかし、人は生来利己的なので、そのまま放っておくと、勝手気ままな自我を出して、その衝突を繰り返してしまい、せっかく、ご先祖さまからいただいた尊い一生を、棒に振ってしまうことも多々あるのです。そこで、萩の成長の障害となる、外敵の侵入をはばむ萩の寺の萩園の囲いのように、勝手気ままな自我を押さえ込んで、一定の枠にはめて暴れださないようにしておく必要があります。

これが本書で紹介するご先祖まつりのさまざまな仏事法要とそのしきたりです。初めはたいへんでも、習慣となってしまえば、当り前のことになるはずです。なぜなら、これらは、みなその背後にある、永遠の生命であるみ仏の教えによって裏打ちされていて、私たちに、ご先祖さまの思いを知らせる上での道標(みちしるべ)だからです。

ご先祖さまの思いによって、生命を授かったのが私なら、その思いを知って、それに応えて生きていこうとする中に、その人にとって最も有意義な充実した人生があるはずです。歴代続けてきた当山の寺僧の萩作りも、尊い仏作仏行として充実していたのです。

私たちは、ご先祖さまに、実体として話したり、触ったりすることはできません。切り株となった萩を見て、見事な花びらを予想することができないのと同じです。しかし、目に見えず手にも触れなくても、花の咲くのを信じて、それが立派に見事に咲くよう念じるとき、咲かせるための努力が必要となります。さまざまな努力と苦労の甲斐あって、無事に、見事な花が開いたとき、その喜びはいかばかりでありましょう。私たちに生命を与えてくださったご先祖さまの思いを信じて、その思いに応えるよう、自分自身が念じていくと、萩を作っていると花の心が分かるようになったのと同様、ご先祖の思いは、自然とその人に伝わってくるのです。そして、止むに止まれぬ感情が心の底からわき出てきます。

目に見えなくてもお花を供え、飲まれなくてもお水を汲み、お供え物が減らなくても季節の初物などをお供えしたくなるのです。よく「私の家は分家ですから、まだ仏がいないので仏壇はありません」とか、ひどい場合になると「私は次男に嫁いだのに、長男がお仏壇をまつらないので私がまつっています。母も苦労なことだと怒っています」というようなことを聞いたりします。この人たちは、自分たちにはご先祖がないとでも思っているのでしょうか。

「人は死んでしまうとそれで終わり」と考えている唯物主義者でない限りは、長男であろうが末子であろうが、ご先祖さまをおまつりすべきです。人間死ねば万事終わりと思っていても、死んでも片付かないこともあり、さらに死んで問題が起こることさえあることは、誰もがご存じの通りです。仏教では、万事が片付いて死ぬことを涅槃(ねはん)に入るといいますが、それを目的として日夜に努力するのが仏(ほとけ)の道です。

意義ある人生を送ろうとする人は、死んで問題を残すようなことをしてはなりません。そのためにも、自分のご先祖さまの思いを知り、その思いこそ今、生かされている理由であることを知り、そして、ご先祖さまひいては仏さまへの「信」「念」「行」の尊さを自覚して、「感謝」「反省」「報恩」の生活を実践していくことこそ大切なのです。

「物で栄えて心で亡びる」―――昨今の目を覆うばかりの金権疑獄事件を見て、その当事者のご先祖さまはどう思っておられることでしょう。わが国では古来より、「真の成功者は、ご先祖さまを大切になさる」と言い伝えられてきました。今一度、「ご先祖さまのいない私はない」ということを肝に銘じておくべきでしょう。

合掌
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