先祖を祀る

合掌と礼拝が仏事の基本

東光院萩の寺住職 村山廣甫

仏事の第一歩は、仏さまに合掌(がっしょう)、礼拝(らいはい)することです。仏さまの前に身をかがめ、頭を下げて拝みます。

合掌すれば、けんかもできない

合掌は、インドで古くから行われていた礼法の一つです。今でもインドの人々は他人に挨拶するとき、両掌を合わせて「ナマステ」といいます。この挨拶は「こんにちは」も「さようなら」をも意味しており、合掌は「あなたに私誠心(まごころ)を捧げて......」という意志表示の形なのです。

「右ほとけ左われぞと合わす手の なかにゆかしき南無(なむ)の一声(ひとこえ)」

インドでは右手は食べ物などを扱う清浄(しょうじょう)な手、左は汚れたものを扱う不浄(ふじょう)の手とされているように、右手はよいもの、美しい行い、神聖なもの、ということから仏をあらわし、左手は悪い行い、醜いもの、ということから私たち凡夫をあらわしているわけです。合掌こそ、魔同面(ぶつまどうめん)といわれる、私たち人間がもっている真実の姿のシンボルともいえましょう。

数ある礼法のうちで、なぜ合掌だけが、仏教とともに何千年も伝えられてきたのでしょう。仏教詩人、坂村真民さんの詩があります。

両手を合わせる
両手でにぎる
両手で支える
両手で受ける
両手の愛 両手の情(なさけ)
両手合わしたら 喧嘩(けんか)もできまい
両手に持ったら 壊(こわ)れもしまい
一切衆生(しゅじょう)を 両手に抱(いだ)け

合掌の姿勢のままで、人をののしったり、怨んだり、蔑(さげす)んだり、けんかをすることはとてもできないでしょう。ただ掌を合わせるだけのようでも、実は人間の精神状態と深くかかわっていことがわかります。ほんとうに素直(すなお)になれたとき、人は自然に合掌できるのです。仏陀の大悲円満の教えには、合掌の姿こそふさわしいわけです。

合掌の方法は、左右の掌と十本の指をそろえてのばし、指と指の間も離さず(特に親指と人指し指の間を閉じて)、ピタッと合わせます。その中指の頭がちょうど喉(のど)の高さぐらいで、両親指の根元が軽く胸につく程度、前にも傾かず、まっすぐにも立てず、だいたい四十五度ぐらいの角度に手を合わせます両肘(ひじ)は時に張らず、脇(わき)の下は、生卵をはさんだ気持ちで、付かず離れず自然に垂れるようにして、肩の力を抜くようにします。

しかし、合掌にもいろいろな種類があります。「十二合掌」ともいわれ、一般的な堅実心合掌の他に十二種類もあります。虚心(こしん)合掌のほかにも、祈祷(きとう)の際の金剛(こんごう)合掌や柏経(はっきょう)(パンと手を打つ)、さらに、坐禅のときなどの、鼻の高さにまで挙げて垂直に立てる合掌なども正しい合掌の一形態です。それぞれの精神にふさわしい合掌があることを知っておくことも必要でしょう。合掌は、仏さまと私たち凡夫が一体となり、平安と誠を表現する最も美しい礼拝法です。合掌する姿は、“仏に帰依し、仏に救われていく”姿なのです。

礼拝は念ずること

作法どおりに掌を合わせ、一心に仏さまを拝むとき、そこに正念(しょうねん)が生じます。念仏とはそういう意味です。比叡山で千日回峰の荒行を完遂された内海俊照阿闇梨(あじゃり)は、その千日間の修行の中で最も若しかったのは、自分自身が病気になったことだったと述懐されています。

「雨の日も風の日も若しかったことに変わりはないが、それはもとより覚悟の上である。しかし、自分自身が熱病となり歩行すら困難になったとき、どんなことがあってもこの修行を成し遂げるんだと、いったん決めた決死の思いも、ともすればくじけそうになった」その時、師は初めて仏さまの御声を聞かれたのです。「お前は何を迷っているのか。千日間のこの尊い行をさせていただきたいとお前がいうから、私はいつも護ってきたのだ。お前が頑張りますという気力を出さねば、護りようがないではないか。しっかりしなさい。」

この御声を聞いたとき、途端に、病気のため負けそうになっていた心のもやもやが晴れていき、はいつくばって比叡山の諸堂巡礼を続けていくうちに、いつしか病いも癒(い)えてしまっていたそうです。仏さまに合掌して、頭を低く下げるとき、「私も頑張ります」という念がなければ、これは鳥羽僧正の鳥獣戯画の世界に他なりません。念を込めて合掌し、仏さまに向かって頭を垂れるとき、初めて礼拝となるのです。仏さまの心と私たちの心とが合掌、礼拝を通して固く結び合うことができるのです。

お数珠は仏事の通行証

お数珠は、“ジュズ”または“ズズ”とも発音し、念珠(ねんじゅ)とも呼ばれています。仏さまを礼拝するときや、お経やお題目をお唱えするときに手にかけてお参りしますが、本来はお経やお題目の数をかぞえるために用いる法具です。

お数珠の起源については、『仏説木槵子経(もくげんじきょう)』に、「常にこれを持って、仏法僧の三宝を念じておれば、煩悩を消滅し、功徳を得る」と記されており、お数珠が信仰を表現する宝珠であるとともに、仏さまと結縁する法具として、仏教徒なら当然持つべきものとされています。お数珠を葬式のアクセサリーなどと考えるのは、とんでもない心得違いで、いわば、仏事の通行証と考えるべきです。キリスト教徒のロザリオと同様に、これを忘れることは、鉄砲を持った兵士が弾丸を忘れるに等しいともいえるでしょう。

お数珠のしくみ

お数珠の玉の数は、百八個が基本で、多いものは十倍の千八十玉、少ないものは二分の一の五十四玉から、四十二玉、二十七玉、二十一玉、十四玉というものもあります。宗派によっては、三分の一の三十六玉、六分の一の十八玉のものも用いています。

数珠玉のうち、房の付いているT字形の穴のあいている玉が親玉といわれ、これが数珠の中心です。主玉の百八個の玉は、私たちの迷い、欲望の数をかぞえて百八煩悩をあらわすとも、またこの煩悩を滅して悟り(尊)を得る百八の菩薩、修行の過程をあらわすとも説かれています。

主玉の間にある小玉や、房に付いている小玉など、小さい玉には、四天、四菩薩、弟子玉、記子玉などの名があり、弟子玉の下についている露形の玉は記子止(きしどめ)露玉と呼ばれ、また親玉のすぐ下、房の一番上にある玉は浄明(じょうみょう)といわれます。

お数珠の形式

お数珠の形式は、宗派により多少の違いがあります。今日一般に使用されているのは、百八個の主玉(子珠ともいう)と二個の親玉(母珠ともいう)をつなぎ、親玉の片方に記子二十個、記子止二個、浄明一個を付け、他方の親玉には房だけを付けます。

また、記子(玉)の付いた方から、主玉七個目の次と、二十一個目の次に主玉よりもやや小さい玉を入れ、これを四天と呼びます。以上の形にできているお数珠は二輪にして使用します。略式として一輪のものもあり、これは礼拝用として携帯に便利です。

お数珠の正しいかけ方

お数珠は宗派によってその形が異なっています。使い方にも違いがありますので、注意しなければなりません。

天台宗

平珠と呼ばれる薄い円形の珠を多く用います。房は、片方に十個の丸玉、片方に平玉二十個が付けられています。これを“とう”、“にじゅう”とも呼びます。二輪によったお数珠を両手の親指と人指し指の間にはさみ、房を下に垂らして礼拝します。

真言宗

その形から振分(ふりわけ)数珠ともいわれ、他宗にも用いられるので八宗(はっしゅう)用ともいわれます。四天珠の付いているほうの母珠を右手中指にかけ、一つひねって中珠を左手中指にかけて合掌します。真言を唱え仏さまを礼拝するときは、右手を仏さまの方に向けて、お数珠をつまぐりますが、自分のことを祈るときは、反対に手前に引くようにしてつまぐります。

向こうに上求菩提(じょうぐぼだい)、手前に下化衆生(げけしゅじょう)、母珠を越えないように真言を唱えつつ、往復してつまぐるのです。

寺院用としては、五十四個玉の半繰(はんく)り念珠もあり、在家用としては小さな菊房のものが一般に用いられています。

浄土宗

輪違い(二連珠)になって丸カンが入っている日課念仏(にっかねんぶつ)用繰(く)り念珠か、三十六玉の一輪の念珠が一般に用いられます。合掌のときは、合掌している両親指にかけ、手首のほうに垂らします。四指のほうにはかけません。

浄土真宗

教義上念仏の数をかぞえることがありませんから、ただ仏さまを礼拝するときの法具の一つとしてお数珠を用います。基本形は浄土宗と同じですが、裏房の結び方が“蓮如結び”と呼ばれる独特のものとなっています。

普通は一輪で、二十七玉か二十四玉のものが多く用いられ、合掌した手の親指と人指し指の間にはさみ、両掌に輪のようにしてかけます。このとき、本願寺派では、蓮如結びの房が親指のところにくるかけ方をし、大谷派では、房を下に垂らすようにしています。

臨済宗・曹洞宗

お念仏やお題目を唱えたりすることがないので、お数珠についてあまり厳しくいうことはありません法具の一つとして荘厳(しょうごん)に使われています。在家では八宗用数珠、二十四玉の片手用数珠が用いられます。なお、曹洞宗では、親玉・向玉・四天の間に主玉が十八ずつ通してあります。

合掌する手にお数珠をかける姿は、念珠とも呼ばれるように、仏さまを念じて、善・悪ともに持っている私の心を、仏さまの大慈悲でつつんでいただき、修行が円満に成就できるように、また、仏さまの教えにつつまれて、安らかに過ごせますようにと、祈る心をあらわしているのです

日蓮宗

四天珠のある父珠を右手中指にかけ、一ひねりして左手中指に母珠をからます。記子の房は、いずれも外側に垂らしますが、目印として二房のあるほうが右、数とり珠数の付いている三房のほうを左になるようにかけます。

お題目を唱えるときとご回向のときに、このかけ方をします(図1)が、ふつう合掌するときは、数珠を二輪にして左手の四指にかけます(図2)。

お数珠を持つ功徳

お数珠の起源について示された『仏説木槵子経(もくげんじきょう)』によると、「霊鷲山(りょうじゅせん)におられたお釈迦さまのもとに波流離(はるり)国の使者がきて『我が国は小さくて、しきりに他の国から攻められ、そのうえ疫病が流行して国民が困窮しており国王が腐心しております。なんとかのがれる方法はないものでしょうか』と教えを乞たのに対して、木槵子(もくげんじ)百八個をつらねて、行住座臥、常に仏法僧の三宝の名を唱えては一過し、これを十遍、二十遍、百ないし百千万遍したならば、現世には煩悩障(ぼんのうしょう)(人間の迷いや欲望によっておこる災い)や報障(ほうしょう)(行った過ちによって起こる苦しみ)は消滅し、未来には天上の楽を受け、さらに念誦して怠らなかったならば、百八の煩悩がなくなって、無上の果徳を得るとお示しになりました。そこで国王は木槵子の数珠を具つくって六親眷属(ろくしんけんぞく)に分けてとても念誦したところ、その功徳が広大であった」と記されています。お数珠を持つことには、これほど功徳が多いといわれているのです。

仏教の数珠はカトリックのロザリオの起源となった

インドでは、“念誦の輪(japa-mala)”として、数珠はバラモン教でも用いられていた。バラモンが神の名を一つ唱えるごとにつまぐったのである。西方の外国人がこのjapa-malaをjapamalaと聞き誤ったことから、japaは「シナのバラ」を意味する言葉であったので西洋では、数珠のことを「バラの輪」と解し、ロザリオ(rosary)と呼ぶようになったという。この名称のみならず、形態においてもロザリオが仏教の数珠に由来していることは、西洋の専門学者によって指摘されている。材質には、金、銀、赤銅、水精、木槵子、菩提子、蓮華子、金剛子、真珠、象牙、香子、琥珀など多種である。

合掌
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