先祖を祀る

おまつりの仕方

東光院萩の寺住職 村山廣甫

法事一般のお供え物

一般の法事に際しては、「香(こう)・華(げ)・燈(とう)燭(しょく)・湯(とう)・菓(か)・茶(さ)・珍羞(ちんしゅう)」を供えるようにと、回向文(えこうもん)にあります。まず、お仏壇の内外をきれいに掃除して、法事のお飾りを整えます。

  • “香”とは、抹香、線香のことです。
  • “華”とは、供花を指します。

    お寺の本堂を拝借するときなどは、そのお寺の指導に従います。ふつう法事における供花は、一対ずつ供えるのが理想です。七回忌までは、少なくとも赤などの華美な花は避けましょう。

  • “燈燭”とは、ロウソクや提灯のことです。

    和ロウソク、洋ロウソクともに、平時は白色のものを使用しますが、お仏壇の開眼などの慶事には朱ロウソクを用います。浄土真宗では、七回忌以降はロウソクは朱色となります。また、忌中やお盆には、それぞれ精霊の道しるべとして提灯を霊前に飾ります。

  • “湯”とは、甘いお湯です。

    霊前にお供えする「浄水」とともに、その清らかな水を沸かし、お湯にしてその中に少量の砂糖を落としたもので、蜜湯(みっとう)と呼ばれます。仏さまの慈悲を象徴する甘露(かんろ)の法味(ほうみ)を意味します。

  • “菓”とは、蜜菓子(みつがし)のことです。

    まんじゅうなどの甘い物を。

  • “茶”とは、お茶のことです。

    平時は一番茶をお供えします。禅宗では、特に「献茶」を尊びます。天目茶碗にお抹茶を入れ、高茶台(たかちゃだい)でお供えしたりします。

  • “珍羞”とは、季節の初物、旬(しゅん)の物を指します。

    同時にそれらによって調理された精進料理(しょうじんりょうり)を、「ご霊膳」でお供えすることを意味します。もっとも浄土真宗では、ご霊膳を供えることはしません。「乾菜(かんさい)」といわれる乾物(コンブ、ワカメ、高野豆腐、椎茸、干ぴょう、寒天など)や「生菜(しょうさい)」と称される季節の野菜や果物もお供えしましょう。なお、家が栄(さか)えますようにと鎮守さまにお酒を供える「献酒」や、おめでたいからと「鯛」をお供えする建碑式のような特別の法事もあります。それぞれお坊さまの指導に従ってください。

  • “献餅”とは、第一番のお供え物です。

    仏事に必ずつきもののお供えとして忘れてはならないものです。昔わが国は米を基本とした農業国でした。武家社会の俸禄も「石高(こくだか)」であらわされ、お米一粒でも粗末にしてはならないといわれ、お寺に「仏生米(ぶっしょうまい)」をお供えする風習すら最近まで残っていたのです。したがって、その貴重なお米をついてつくられる“お餅”は、たいへんなご馳走であったのです。慶事のときは「紅白の重餅(かさねもち)」、弔事のときは「黄白の重餅」をお供えします。ともに小判形の餅を二段に重ね、シキミもしくは椿の葉をその上に置いて、干ぴょうで結んだものが正式です。お仏壇やお墓の開眼には、「紅白の鏡餅」をお供えしたりもします。

    なお、満中陰の法要には、「忌明けの傘餅(かさもち)」をお供えするのが正式です。七枚の花びら餅を七段重ね、四十九の小餅をお供えしたそのてっぺんに、一枚の平たい傘になるお餅をかぶせたものです。この傘の部分を人字形に切って、新亡の霊との相続を図る儀式は後で述べます(116ページ)。その他、故人の好物などで、法事にふさわしい食べ物などをお供えするのがよいでしょう。

お飾りの荘厳さを強調するため、平素は敷かない「打敷(うちしき)」を、上段の上卓や中段の前卓に敷くことが大切です。葬儀から中陰、三回忌ぐらいまでは、正式には銀襴、または白い打敷を用い、少なくとも赤などの華麗な色の金襴は避け、華美なものは、七回忌以降に用いるのが法要の精神にかなうでしょう。

中陰壇(後飾(あとかざ)り)のおまつり

四十九日間の中陰の間は、お葬式の祭壇を小さくした、白木の祭壇を設けます。お仏壇があるときは、お仏壇を荘厳して、その前に組むのが正式です。このとき、お仏壇の前には白い打敷をかけておきます。神棚があれば、閉じて、その前に白紙を垂らしておきます。死霊による汚れを防ぐためといわれています。

中陰の間は、灯明をずっとともしておき、お線香も絶やさないのが原則です。新亡の霊に、遺族が供養する場所を知らせるため、ロウソクや提灯・ぼんぼりなどによる、お灯明をあげておくのです。また、新亡の霊(みたま)は、食香・求生とも呼ばれ(106ページ)、お線香を食とするところから、お線香を絶やさないのです。しかし、くれぐれも火事にならないよう注意し、どうしても留守番のないときは、よくお詫びして失礼するのも止むを得ないでしょう。浄土真宗では教義上、ロウソクやお線香は、お参りするときにあげれば十分とされています。

そのほか、お供えは法事一般の例に準じますが(111ページ)、供花は黄菊・白菊を中心に、できるだけ地味なものにします。中陰の間は、忌中として、毎日お位牌に向かってご供養することが大切です。毎朝、必ず水とお茶をお供えし、炊きたてのご飯と、多少の料理などをあげます。そのとき、故人が食べられるようにお箸を忘れず添えましょう。昼前には下げて、お昼食に混ぜて家族でいただきます。

この中陰の間に、忌明け法要に招く方を書き出し、遅くとも法要の二週間前までに案内しましょう。近親者や故人の友人・知人、そして葬儀を手伝っていただいた方々に案内を出し、出欠の確認をとります。人数が確定したら、菩提寺や料理屋などへ連絡して、法要の際に配るお返し物(香奠(こうでん)返し)の数と品物を決めます。忌日とは、ご先祖や・故人の追善に専念して、他の事には心を向けるのをつつしむ日です。したがって、中陰中は、お祝いごとや、その他のおめでたい席への参加はつつしみましょう(288ページ)。なお、中陰の間は、七日目ごとに、お坊さまに回向していただき、新亡霊位をご供養するのが礼です。その場合“お布施”をそのたびに包みます。

また、中陰の追善供養として大切なのは、七日目ごとの七回のお墓参りです。三十五日で忌明け法要を済ませても、六七日(むなのか)、七七日(なななのか)のお墓参りを怠らないようにしましょう。七本塔婆を建てる現実の意義が、この七回のお墓参りにあることはいうまでもありません。

なお初七日をすませた後の四十九日までのご供養は、現在では、そのたび毎に呼んだり、呼ばれたりするのは大変なので身内だけでお坊さまにご回向を丁戴するのが通例となっています。これを内献(ないけん)供養といいます。

初七日(初願忌(しょがんき))の法要

まず中陰の繰り方として、地方によって数えはじめる日が異なるので注意しましょう。“関東”では、死亡した日から数えるところが多く、“関西”では死亡の前日より数える場合が多いようです。

葬儀の終わったあとの最初の法事は、本来没後三日目の「開蓮忌(かいれんき)」ですが、現在、ほとんどこの法要は、火葬場より迎えた遺骨を、中陰の白木祭壇に安置する「安骨経(曹洞宗では「安位諷経(あんいふぎん)」という)」と同一視されてしまっています。亡くなった日を含めて七日目(地方により関西などはその前日の逮夜を初七日とする)に営む初七日の法要が、中陰最初の法事として大切です。

初七日は初願忌と呼ばれます。この日に、故人の新霊(あらみたま)は三途(さんず)の川に到達します。審判官の決定により激流・緩流のいずれを渡るかが決まるため、できるだけ緩流を渡れるよう、不動明王にお願いし、追善供養を営んで現世より援護するのです。

四十九日(満中陰)とともに、中陰壇にお坊さまを招いて読経を依頼し、ご回向をちょうだいします。このとき、近親者や親しい友人・知人、葬儀のときにお世話になった方々を招いて、ご供養のお焼香をしていただきます。

また、法事の常として、一同を茶菓や精進料理などでもてなし、お斎(とき)の功徳も積ませていただきましょう。このあと「志」などの表書きで、引出物を贈ったりもします。この初七日の法事が済むと、葬儀に区切りがつくとされています。

なお最近では、火葬場から遺骨を迎えたときの安骨経といっしょに、初七日の予修(よしゅう)法要を営むことが一般化しています。これは親類縁者が遠方に散らばっている場合が多いこと、葬儀を終えて三〜四日後に初七日となり慌ただしいこと、などがその理由です。

しかし本来、供養させていただく側の都合で、新亡の精霊に定められた、中陰の忌日を変えるのはおかしなことです。初七日の法事をすでに済ましていても、正しい初七日の日には、ご遺族だけでも、内輪で供養のまことを尽くさせていただくべきでしょう。

四十九日(満中陰(まんちゅういん))の法要

故人の四十九日(満中陰)の法要を済ませると、喪主・遺族は忌中、忌服(きぶく)を終え、元の日常の生活に戻ります。これを「忌明け」といいます。

満中陰が済むと、法要後「中陰壇(後飾り)」を片付けます。これを「壇ばらい」もしくは「棚おろし」と呼びます。また、白木のお位牌から塗りのお位牌に替え、納骨を済ませます。以下満中陰について留意することを列記しましょう。

三月越(みつきご)しと忌明け

初七日、二七日(ふたなのか)、三七日(みなのか)、四七日(よなのか)とご供養を続け、五七日(いつなのか)が比較的重要な忌日なので(106ページ)、この日に忌明けをされる方があります。しかしその理由が、七七日(なななのか)忌(四十九日)が三月(みつき)にまたがるといけないからというのは、まったく根拠のない迷信です。これは始終苦(しじゅうく)(四十九)が身(み)(三)に付(つ)く(月)ので、四十九日忌が三月にわたるといけないなどという、まったく途方もない語呂合わせからきているのです。こういう迷信に惑わされることなく、三月にまたがっても、七七日忌(四十九日)の満中陰法要は、立派に勤め上げなければなりません。

また、「忌明け」と「満中陰」とは別の観念で、同一視するのは正しくありません。故人にとって中陰が満ちて輪廻転生が決定するのは、没後四十九日目と決められています。しかし、忌明けは、供養する側である喪主や遺族が、故人の成仏のための追善供養を優先させてきた、一定期間のつつしみの生活を終えて、元の日常の生活に戻ることで、いわば喪服を脱ぐことなのです。したがって、その期間は、その孝順心の強弱により、また家業や生業等の諸般の事情によって長くも短くもなるでしょう。通例は、七七日忌(四十九日)の満中陰の忌日に、忌明けをするのが本来の姿です。

このとき、四十九日の法要が終わると同時に忌明けとなるのです。

四十九日(しじゅうくにち)の傘餅(かさもち)

七七日忌の満中陰には、宗派によって(曹洞宗、真言宗、天台宗)、ご霊前に「四十九日の傘餅」をお供えします。また、新しい生ぐさものにふれたことがない“まな根”と“包丁”も用意します。

お坊さまは、新品のまな板と包丁を使って、お餅を旅立ちの姿に、すげ笠、頭部、身体、手足と切り整えていきます。出来上がった人型のお餅は、「吉祥餅(きちしょうもち)」と呼ばれ、成仏した新亡の霊位が悪いことを持ち去り、残された遺族によいことを約束する縁起のよいものとされています。遺族はこの吉祥餅を、それぞれの希望にしたがって分配します。たとえば、胃のよくなりたい人は胃の部分、右肩のよくなりたい人は右肩の部分のように、それぞれ希望する部所をいただくのです。

すでに述べたように、お年玉は本来、自分の生見魂(いきみたま)(生身霊)をお餅に託し、目下(めした)の者にプレゼントすることでした(18ページ)。この吉祥餅は、新霊(あらみたま)が、四十九日間の遺族のご供養に応える気持ちをお餅に託し、残された者にプレゼントするのです。このお餅を分け合って食するところに、故人の仏性を相続するという、忌明けの「食い別れ」の意味合いがあるのです。

ただ、すげ笠をかぶった一組の頭部だけは食べないで、喪主が玄関の外から北を背にして立ったまま、北へ向かって、棟(むね)を越すように投げるのがしきたりです。後ろ向きになって、北へこのお餅を投げるのです。これは、死霊が棟を離れ成仏するという、古来の言い伝えを彷彿(ほうふつ)とさせる作法です。

この四十九日の傘餅は、古代インドの「ピンダ」の習俗が、密教を通じて、わが国に広まったものと考えられています。なお、このお餅については、その由来やおまつりの仕方、食べる方法が、地方によって異なるようです。このお餅のことを「釘餅(くぎもち)」といい、忌明け法要のことを「釘抜(くぎぬ)き」と呼ぶ所があったり、“一升枡”の裏にのせるものとされたり、また、菩提寺に持参すべきだとする風習もあります。

本位牌と納骨

満中陰の忌明け法要は、故人の成仏と、遺族の再出発のための、中陰中最大の法事として営まれ、ご供養されるわけですが、それと同時に、お仏壇や本位牌の開眼、お墓への納骨法要も併修されるのが通例です。

  • 満中陰には、今までおまつりしていた白木の内位牌に替えて、漆塗りの本位牌を調え、菩提寺の住職によってお性根を入れていただきます。今までの白木位牌のほうは、お魂抜きをして、法要後はお寺に預けることとなります。寺院によっては、お盆の期間中、大きな精霊棚に、この白木のお位牌をおまつりして、ご供養するところも多く、新盆供養として、特別に集まってもらい、十五日の夕方に、精霊船に乗せてお流しするか、送り火でお焚き込みをします。このように白木のお位牌は、塗りの本位牌に替えられても、依然としておまつりされるものなのです。

  • 新たに、お仏壇を持たれる場合は、このときにお求めになるのがよいでしょう。本来は、新しく家庭を持つようになったならば、家の最も中心にお仏壇を安置して、毎日、合掌・礼拝するのが、仏教徒としての勤めなのです。ご本尊仏については、その正式のものは、菩提寺を通じてしか、求めることができない宗派もあるので(浄土真宗、曹洞宗、臨済宗妙心寺派)必ず、菩提寺にお尋ねしてから調えましょう。

    お仏壇の開眼供養には、法事一般のお供え物を用意するほか、特別に次事柄に留意します。まず、ロウソクは朱ロウソクを用い、紅白の重餅、できれば鏡餅をお供えしましょう。ご先祖のお住居(すまい)の上棟式(じょうとうしき)ともいうべき法要です。宗派によっては海の幸の王者、おめでたいお祝いの鯛や末永く栄えるようにとお酒もお供えし、み仏をお迎えするのです。

    また、お仏壇の開眼供養の肝心要(かんじんかなめ)は、ご本尊仏の点眼(てんがん)にあります。万歳の声が飛び交う中で、当選した議員や知事さん、市長さんたちが、ニッコリほほえんで、必勝ダルマに眼を書き入れています。手に持っているのはたっぶり墨を含ませた大筆です。ダルマに眼を入れる(点ずる)あの行事こそ、点眼そのものなのです。私たちもお仏壇の前に硯(すずり)と墨(すみ)、それに大筆(おおふで)を用意して、開眼供養に臨みましょう。本位牌をお仏壇の中に安置することにより、新亡の霊(みたま)は、この仏国土の中で、三十三回忌ないし五十回忌に至るまで、お給仕され続け、ご先祖さまに昇華していくこととなるのです。もっとも浄土真宗では、臨終と同時に往生するという教義ですから、お位牌をおまつりすることはありません。

  • 満中陰までご供養され、浄化され続けたご遺骨は、これより「舎利(しゃり)」と呼ばれ、仏教の説く「完全な涅槃(ねはん)」を象徴したお姿となります。

    お釈迦さまは、ブッダ・ガヤーの菩提樹(ぼだいじゅ)の下(もと)、八日間の坐禅の後、十二月八日の明けの明星の輝くとき、成道されたと伝えられています。このときより、お釈迦さまは「覚者」となられ、この世の人でありながらこの世を越えた存在になられたのです。

    しかし、いかに覚者となられても、人間としての、悩みや苦しみのよりどころである、肉体はつきまとっていました。この肉体(余)を伴ったお悟りは、「有余(うよ)の涅槃」と呼ばれています。たとえば、おなかがすけば食べたいという欲望が起こります。いいかえれば、この欲望があればこそ人間なのです。また、鍛冶屋チュンダが供養した“毒きのこ”をお食べになったお釈迦さまは、中毒症状で、しきりに身体の痛みを訴えられます。釈尊といえども私たちと同様に、死に至る苦しみを味わわれたのです。煩悩のよりどころである肉体を滅ぼさない限り、「完全な涅槃(無余(むよ)の涅槃)」は、釈迦ですら手にすることができなかったのです。

    このように仏教は、「死」を単なる肉体の滅びではなく、「永遠の生命」を受け、お悟りの完成をもたらすものとして、最高の価値に位置付けられることを、明らかにしているのです。お釈迦さまがお隠れになった二月十五日を、「涅槃会(ねはんえ)」と呼ぶのもこのためです。したがって、肉体を滅し尽くした「舎利」の姿は、仏教の説く完全な涅槃の象徴です。満中陰までお勤めし、そのご供養を受けて、お舎利となった亡き人のご遺骨は、五大をあらわし、永遠の生命のシンボルである「お墓」に速やかにお納めして、永遠の眠りについていただくのが本来の姿です。

    しかし、昨今のあわただしい現代社会の現実は、生前中にお墓の準備をしたり、忌明けと同時にすぐ納骨できるような近隣の地に、郷里のお墓を持っているような人は、ごく稀な恵まれた人です。そこで、忌明け法要後は、いったん菩提寺に、お舎利となった故人の遺骨をお預けし、百力日(卒哭忌(そっこうき))法要の時に、納骨させていただく例が一般化してきています。

    このように墓地がなく、お寺に預かってもらったり、納骨堂に一時預けするときには、納骨法要を行います。

    百力日は、卒哭忌(泣き納めの日)とも呼ばれ、広い意味での忌中にあたります。百力日まで忌中としておまつりすることは、丁寧なおまつりとして歓迎されます。この日は、満中陰の審判に対しての、いわば新亡霊位の再審にあたる日で、本来は餓鬼(がき)世界の精霊(しょうれい)にお施食(せじき)し(お施餓鬼法要)、お塔婆を建ててご供養したのです。中陰の延長として、また塔婆供養の日として、その本来の精神を生かし、百力日忌は、現在むしろ、新亡霊位の納骨法要の日として、重要性を持つに至っています。

    満中陰の忌明法要で、お仏壇の開眼の併修は、時間的にも場所的にも可能でしょうが、それにさらにお墓を建碑して、納骨法要まで合わせて営もうとすれば、参列者の移動もさることながら、全体として、かなり長時間の法要を覚悟しなければなりません。お仏壇をすでにおまつりされている方で、霊園やお寺で、満中陰の忌明法要を営み、その霊園内やお寺の境内にあるお墓に、納骨するような場合のほかは、一時ご遺骨をお寺に預けられ、百カ日を期して、しかるべきお墓に納骨されるのが、無理のない流れであるといえるでしょう。

    なお、一般にお墓を建てるのは、「三回忌までに」とされています。それまでは、ご遺骨は、菩提寺にお預けしておいてよいのです。ただし、最終的には、お墓に納めるつもりでも、百力日を越えて預けるのは、「納骨」にあたるでしょうから、お坊さまにお尋ねしてご指導を受けるようにしてください。

香奠(こうでん)返し

四十九日の忌明けが過ぎると、香奠(香典)やお供え物をいただいた方たちへ、忌明けのご挨拶状を添えて、お礼の品を送ります。これが「香奠(香典)返し」です。返す金額の目安は、いただいた額の二分の一で「不祝儀は半返し」といわれているくらいです。しかし、一家の大黒柱が亡くなった場合は、三分の一のお返しでもよいともいわれています。デパートや葬儀社に相談すれば、ご挨拶状やお礼状を含め、すべてやってくれます。

品物には、弔事用の白黒の水引をかけ、表書きは「志」か「忌明志」または「満中陰志」とし、下に送り主の姓名を書きます。送り主はその品物についての施主すなわち供養主です。

香奠返しの数が多い場合は、いただいた香奠を三段階ほどに分け、それに合わせて、送る品物を用意します。香奠返しによく使われる品物は、タオル、ハンカチ、シーツ、ふろしき、お茶、砂糖、菓子、漆器、陶器、せっけんなどです。参列者の持ち帰りに便利なもの、あまりかさばらず、重くないものを選びましょう。

忌明けに香奠返しをせずに、その金額の一部または全部を社会事業や福祉施設、さらにお寺などに寄付したり、あるいは形見分けをしないで、故人の品物を寄贈する場合があります。故人の遺言であれば、そのように申し出るか、その旨を挨拶状に述べ、お礼にかえます。この場合は、市区町村役場の福祉課、福祉事務所の取り扱う係やそのお寺などへ申し込み実行します。

なお、香奠返しを受けとったときは、ことさらお礼状を出さないのが通例です。

形見分け

忌明けのころには、故人の遺品も一応の整理がつくものです。四十九日をもって忌明けとなったところで形見分けをします。形見分けは故人が生前中愛用し、あるいは大切にしていたもので、故人の思い出のしるしとなる品々を分け合うことから、その対象は、近親者や親類、特に故人と親しかった友人などに限られます。かつては故人が愛用した衣類を中心に形見分けをしました。それは故人の被着した衣類には特に死者の霊魂がこもると考えられていたからです。

特に、お坊さまの間では「衣鉢(えはつ)をつぐ」といわれ、師匠の衣(ころも)をいただくことは、その跡目(あとめ)相続の公証となっています。

なお、形見分けは原則として目上の人には贈るべきではないといわれています。最近では衣類だけでなく、装身具、所持品、蔵書類までが、その対象となっており、むしろ財産分与的な傾向になっています。しかし、あまり高価なものは贈与税の対象になるので、形見分けから除き、贈られるほうも注意しなければなりません。

形見分けをする品物と贈るべき人に、故人の遺言がある場合には、そのようにします。贈る相手に喜ばれる品物を遺族は選びたいのですが、四十九日に親類が参会するのに合わせて準備をし形見分けの品物を見せて、その中から選んでもらうのも一つの方法です。

また、受け取ってもらえるかどうかも確かめておくとよいでしょう。汚れていたり、壊れたり、古い物など相手に迷惑をかけるような品物を贈るのは避けるべきです。故人が親であっても、他家に入ったものは自ら要求するものではないといいます。亡き人の霊魂を受け継ぎ、それにあやかるだけでなく、遺族の感謝の心をも喜んでいただくのが形見分けの本来の姿だからです。

形見分けの品は、箱に入れたり、布や紙に包んだりせず、そのまま手渡すものとされています。

余談になりますが、お釈迦さまが故郷の城に帰られたとき、実子ラーフラは母のヤショダラにうながされ、お釈迦さまに、「われに家の財産を与えたまえ」と申し出ました。お釈迦さまは黙ってラーフラをお弟子の舎利弗尊者(しゃりほつそんじゃ)のもとに連れて行き出家させました。「財産を与えて下さい」といったわが子に対して、お釈迦さまは教法(おしえ)という心の宝を与え、「法の跡継(あとつぎ)」となるように諭(さと)されたのです。子どもは親の背中を見て育っていきます。恐ろしいほど、親の仕ぐさ、考え方は似ています。わが子に与える形見としてどんなものを残したらよいか、お互いによく考えましょう。

壇ばらい(「棚おろし」ともいう)

故人の四十九日の満中陰法要を済ませると、今まで家族といっしょの生活を過ごしてきた新亡の精霊は転生を果たし、白木造りの中陰壇(後飾り)を離れて、本位牌を依代(よりしろ)としてお仏壇に入られます。今後はお仏壇でご本尊のお加護のもと、「ご先祖さま」の仲間入りを果たされるまで、み仏の世界で修行し続けられていくのです。

そこで、今までおまつりの場であった中陰壇は、その任務を終えることとなり、法要の後は、速やかに片付けて“壇ばらい(棚おろし)”します。お棚や経机のような造作だけでなく、後かざりに使用した白色無地のお仏具はどのようなものも、今後はいっさいお仏壇で使ってはなりません。現在でも、インドでは、チャイ(紅茶)を飲むために一度使った素焼きの器は、地面に投げ打ってこわしてしまうのが習わしです。

「ぼんぼり」なども“壇ばらい”の対象となります。もっとも白木の内位牌だけは、今まで新霊(あらみたま)の浄化を図って来た依代(よりしろ)なので、お焚き込みなどしかるべき時まで菩提寺に預け、おまつりしていただきましょう。遺骨は「ご本骨」「お胴骨」ともに、納骨のときまで菩提寺にお預けしましょう。遺影の写真は、白黒の忌中のリボンを外して仏間の上に掲げます。このときお仏壇の上部正面は避けるべきでしょう。

なお、「忌明け法要」が四十九日でなく、三十五日やそのほかの日に営まれたときは“壇ばらい”はできません。忌明け後も満中陰まで後かざりをさせていただくのが本当です。この壇ばらいの後始末は、前もって担当の葬儀社に連絡しておき、満中陰の法要が終わってから引き取りに来ていただくのがよいでしょう。自分で焼いたり、捨てたりして処分しないようにします。

四十九日の法要の大まかな流れ

  • まず、法事の会場と決まった所に、参列者は定刻までに集合します(会場としては、自宅、菩提寺、会館等が考えられます)。
  • 喪主は、白木造りの内位牌と用意した漆塗りの本位牌(浄土真宗では法名軸や過去帳)、ご本骨と胴骨ならびに遺影を、会場の中陰壇に安置します(法事一般のお供えのほかに、宗派によっては、満中陰に特有の四十九日の傘餅や新しいまな板と包丁を用意して、後飾りを荘厳します)。
  • 菩提寺のお坊さまを迎えて、読経が始まります(参会者もいっしょに、お経本を持って読経しましょう)。
  • 参列者全員がお焼香し、ご回向をち ょうだいします(前もって、お焼香の順位、そのあるなしを含めて、決めておかねばなりません)
  • お坊さまによるご法話を拝聴します(菩提寺からの法施(ほっせ)です。素直な気持ちで聞かせていただきましょう)。
  • お斎(とき)(正式の食事)を催します(最近はホテルや料理屋、レストランなどへ、会場を移すことが多いようです。この場合、移動するときの車の手配や、会場でのフォローなどを、考えておかなければなりません)。
  • 引出物を、参列者に渡して解散します。以上の法要のほかに、忌明けと同時に、埋葬、納骨を済ます場合は、5〜6の間に、次の儀式が加わります。
    • イ.墓地に行き、埋葬、納骨します(霊園墓地では業者が、菩提寺では出入りの石材店が、準備設営します)。
    • ロ.お塔婆を建てて(浄土真宗を除く)供養し、お坊さまに入魂(点眼)していただきます。
    • ハ.墓前回向をちょうだいし、参列者全員がお焼香をします。
    という、墓前での儀式が加わります。

百力日(卒哭忌(そっこうき))の納骨

人は死の瞬間から死後の世界に入ります。そして、転生の後に新たな生を受けると、仏教では説かれています。四十九日間の中陰が満ちて、忌明けの法要が終わると、故人の精霊は、これまでの家族いっしょの生活から、仏さまの世界に転生し、一家を守る「ご先祖さま」へ昇華するため、修行をつづけられることになるのです。

初七日から七七日忌までの中陰の間、七日目ごとに、冥界で審判される故人のために、残された者は、新亡精霊の成仏(じょうぶつ)、つまり少しでも善い所に生まれかわってもらいたいとの願いを込めて、中陰壇で追善供養を営み、喪に服し、善行を積んでまいりました。しかし、この裁きは四十九日を過ぎても続けられる場合があるといわれています。

故人の死後、百日目にあたる忌日を「百力日忌」といい、父母への孝養を重視する中国儒教の「卒哭忌」を仏教がとり入れたものといわれています。百力日忌は、いわば四十九日忌の裁きに対して、その“再審”にあたるともいうべき日です。

満中陰を過ぎても、いまだに故人の転生が決まらないことを「中有に迷う」といい、そういう精霊はこの日、観世音菩薩さまのお導きにより、平等王の審判を受けるとされています。高松宮さまがお亡くなりになったとき、妃殿下が「百日間、喪に服します」とおっしゃったと、新聞で報道されたことがありました。菩提寺からご遺族に渡される忌中を定めた「中陰逮夜表(ちゅういんたいやひょう)」も百力日まで記載されているのが通例です。

百力日忌は、満中陰後に到来する最初の法事であるとともに、卒哭忌(泣き納め)あるいは出苦忌(しゅっくき)と呼ばれるように、故人を哀悼してきた今までの生活に、丁寧な意味で、「いつまでも悲しんでばかりいないで、泣くのをやめ苦しみを乗り越えて行こう」と、心にけじめをつける日でもあります。百力目の法要には、故人の追善供養のほかに、今なお中有に迷う霊や無縁仏のためのご回向、「お施食会(せじきえ)(お施餓鬼(せがき)会)」を併せて行い、お塔婆供養を修するのがしきたりです。最近では、この日に、お施食供養に代わって墓地や納骨堂にご遺骨を納骨する「納骨法要」を営む例が多くなってきています。故人の死後百日目をひと区切りとして、遺族の家庭ではお礼回り、遠方への伝達、遺品の整理・分配など、その後始末をすべて終えるように努めてきました。気持ちも落ち着いて泣くこともなくなり、故人に安心してもらいましょう。

このように、百力日に納骨法要を行い、故人の霊を永遠の眠りにつかせることは、遺族による忌中最後の後始末として、卒哭、出苦の精神にふさわしい仏事といえるでしょう。なお、納骨はできるだけ早く、できれば広義の中陰にもあたるこの百力日までに営まれるのが理想です。それを諸般の事情で延引するときは、没後二年以内、三回忌までに納骨すればよいといわれています。

ご挨拶状

例1
謹啓
御尊家御一同様には愈々御清祥のこととお慶び申し上げます。
過日母○○儀死去の節には御繁忙中にもかかわらず御懇篤なる
御弔慰を賜り尚格別の御香志に預り洵に有難く厚くお礼申し上げます。
御蔭を以ちまして本日滞りなく満中陰の法要を相営み忌明け仕りました。
早速拝顔親しくお礼申し上げる筈でございますが略儀ながら粗箋を以ちまして謹んでお礼の御挨拶を申し上げます。
敬具
 平成○年○月○日
満中陰のお印に粗品ご送附申し上げましたから
ご受納くださいます様お願いいたします。
例2
謹啓 時下ますますご清祥のこととお慶び申し上げます。
平成四年八月二十九日、酷暑の碧空の中へ、夫山本庄次は逝ってしまいました。
彼は夫としても、父としてもすばらしい人でした。
何事にも一生懸命でそして即実行の人でした。その為きっと一生を大急ぎで過してしまったのでしょうか。
しかし彼は友人、知人に恵まれ、大好きなカメラで世界各国を歩き、誰よりも家庭を大切にし、きっと彼は燃焼し尽くしたのかもしれません。年老いた母達、三人の子供そして私を残したままで、さぞ無念だったと思いますと、この胸も張り裂けんばかりでございますが、主人は、もう帰っては参りません。これな辛い事は私の身の廻りで二度と起きないことを祈ります。
悲しい事ばかりではございますが、彼と一緒に歩いた歳月を大切にし、これからの人生、母や子供達と共に彼の示してくれたすばらしい後姿を思い出しながら、一生懸命生き抜こうと思っています。どうぞ公私共に相変わりませぬご厚情を賜ります様、お願い申し上げます。
告別式に際しまして、皆々様より寄せられました身に余るお志、有難く頂戴致しました。
お気持を無にしない様、主人が生前大好きでした富士山の見える御殿場、富士霊園に墓地を求める運びになりました。近々納骨を致すつもりでございます。桜やつつじの名所でもあります。寂しがり屋の彼の為に行楽のついでにも逢いに行ってやって下さい。
本日、鷲山院顕輝日庄居士
五七日忌の法要を親族だけで済ませました。
生前お世話になりましたことをつたない筆で深くお礼申し上げます。
ありがとうございました。
 平成○年○月○日
敬具
山本 和美
合掌
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