先祖を祀る

お戒名(かいみょう)について──法名・法号を含めて

東光院萩の寺住職 村山廣甫

ご法事を営み、故人をご供養するとき、その方の俗名(ぞくみょう)でおまつりするのではなく、仏弟子としてのお戒名で営まれるのが通例です。それではいったいお戒名とはどういうものなのか、少し考えてみましょう。

お釈迦さまの時代の「授記(じゅき)」

八万四千といわれる膨大な法門が存在し、「お悟り」を目標とする仏教教典の中で“末来世の成仏を約束する”ための「授記(もしくは記別)」についての記述があります。

たとえば、阿含経(あごんきょう)によれば、お釈迦さまは、過去世においてスメーダとして生まれていたとき、燃燈仏(ねんとうぶつ)によって未来はブッダとして成仏するであろうと授記されたことが説かれています。また、法華経には、お釈迦さまの十大弟子の一人、舎利弗(しゃりほつ)尊者(般若心経でおなじみの舎利子)は、未来世において「華光如来(けこうにょらい)」という名の仏になるであろうと説かれています。仏典では悪人の代表とされる提婆達多(だいばだった)に対してすら、未来世の仏として「天王如来(てんのうにょらい)」の名が授記されているのです。

これらのことから、お釈迦さまの時代にも、裟婆(しゃば)世界の名である俗名とは違った「仏名(ぶつみょう)」が与えられていたことがわかります。

戒法を伝える先人たちの苦闘

お釈迦さまの弟子として成仏の道を歩むことは、その「教(おし)え」に従うことです、教えに従うということは、まず「戒律(かいりつ)」を守ることから始まります。お釈迦さまの教えを守ることを約束し誓った仏教信者には、その戒律を守る人として、いいかえれば、戒法を受け入れた人として、その名前、すなわち「お戒名」が授けられるのです。

ところで、この戒法を伝えるための先人たちの努力はたいへんなものでした。正しい仏教を求めて、中国からはるばるインドに旅する僧は多かったようですが、途中で命を落とす者、帰国できなかった者がほとんどで、経典を持ち帰った者はごくわずかでした。

なかでも、唐の時代には『大唐西域記』で有名な玄弊(げんじょう)(三蔵法師)は長安を出発し、新彊省の天山北路から西トルキスタン、アフガニスタンを経てインドに入り、各地を遊学してたいへんな苦労の果て、『大般若経六百巻』、『大毘婆沙論(だいびばしゃろん)二百巻』などを独力で持ち帰っています。彼がもたらした唯識学(ゆいしきがく)は、のちに法相(ほっそう)宗をつくることになり、このとき彼の招来した大般若経は、それを尊ぶ禅宗において今日の「大般若会(だいはんにゃえ)」の法要に結実しています。

一方、わが国では、六世紀未に、聖徳太子が十七条憲法を定め、その第二条に「篤く三宝を敬え、三宝とは仏法僧なり」とうたって、仏教精神に基づく政治を進めていかれました。しかし、当時のわが国は、まだ「戒師(かいし)」さま(戒を授けることのできる人)がいない状態で、「戒壇(かいだん)」(戒を授けるところ)も存在していませんでした。そこで、ほんとうの意味での「お授戒会(じゅかいえ)」を行うため、中国から正当な戒師を招く心要が生じてきました。

天平五年(七三三年)、栄叡(えいえい)と普照(ふしょう)が勅を奉じて遣唐使として派遣され、鑑真和上(がんじんわじょう)を招讃します。二人の熱意により和上は来日渡航の決意をしますが、当時の中国政府はこれを許可しません。このいきさつは、井上靖氏の著書『天平の甍』でも有名なところとして知られています。和上は密航に近い状態で渡航することになり、暴風などで五回も失敗を重ねた上、自らも盲目となって、ようやく十二年目にして来日を果たします。

そして、天平勝宝六年(七五四年)、和上は東大寺に「戒壇」を設けて菩薩戒の授戒を行い、聖武天皇に「勝満」光明皇后に「満福」のお戒名をお授けになりました。わが国最初の正式なお戒名の登場です。このお授戒に対する聖武・孝謙両天皇の心からのお布施として、たいへんご苦労をかけた和上のために、唐招提寺(奈良県)は建立されました。

これより各地に、「本朝の三戒壇」と称される東大寺・下野(栃木県)の薬師寺・筑紫(福岡県)の観世音寺に戒壇が設けられます。これにより国家公認の僧侶になるためには、この三力寺のいずれかへ赴いて、「戒」(小乗戒(しょうじょうかい)・具足戒(ぐそくかい))を受けることが必須の条件となりました。

時代は下って平安時代、比叡山で最澄(さいちょう)(伝教大師)は、大乗戒壇(だいじょうかいだん)の開設を発願しますが、朝廷の勅許を得ることができません。ようやく大師の没後七日目の弘仁三年(八二二年)にその勅許が下ります。また、永保元年(一〇八一年)に三井の園城寺に設けられた戒壇は、それに反対する山門(比叡山)の衆徒により、破却の浮き目に合ってしまいます。

お釈迦さまの「教え」に従うため、その第一歩としての「戒律」を守ることをお誓いする「お授戒会」を、どこで、どのように行うかは、このような歴史に照らしてもわかるように、仏教にとっては、非常に大切なことだったのです。

ところで、お戒名が現在のように、お寺の檀信徒のすべてにまで付けられるようになったのは、江戸時代の「寺請(てらうけ)制度」に起因するといわれています。キリシタン禁制の実をあげ、その寺の檀家であることを証明するために、お戒名が一般にまで普及していったのです。

戒の内容

『大槃涅槃経(だいはつねはんきょう)』によれば、お釈迦さまがお亡くなりになるとき、お弟子たちに最後の説法をなさいました。その説法の初めに、「私が入滅したあとは、何よりも戒法を敬い、尊ぶ生き方をしなさい。そうすれば人生は明るく、心豊かになるのだ」と、お諭しになっておられます。

一般に「戒」とは、防非止悪(ぼうしあく)の意味で、何々してはならないという“いましめ”であると受け取られていますが、本来、人々に具わっている「仏心」の働きそのものであるとも考えられます。宗教は最高の情操教育であると、ある教育者はいっています。自我の赴くままに、ともすれば衝突ばかり繰り返す生き方を、この戒律による固い枠にはめ込んで抑えたり、怠情な性情から避けて通る善行に叱咤激励して赴かせるのが、仏の戒法の働きなのです。

戒法による働きこそ、最高の情操を培っていくのです。戒法には、小乗戒(しょうじょうかい)とか大乗戒(だいじょうかい)、円頓戒(えんどんかい)というように、いろいろな種類や呼び名があり、その数も「四分律(しぶんりつ)」というお経をみると、四十八軽戒(きょうかい)とか、比丘(びく)(男性僧侶)は、二五〇戒、比丘尼()びくに(女性僧侶)は三四八戒と数多くの戒が説かれています。ここでは在家信者の戒について説明しましょう。

現在わが国でお戒名を付けていただくに必要な戒法としては、「三帰戒(さんきかい)」、「三帰五戒(さんきごかい)」、「三聚浄戒(さんじゅじょうかい)」、「円頓戒(えんどんかい)」、「十重禁戒(じゅうじゅうきんかい)」などがあります。

三帰戒(さんきかい)

三帰戒または三帰三唱は、南無帰依仏(なむきえぶつ)、南無帰依法(なむきえほう)、南無帰依僧(なむきえそう)といって、仏さまと、仏さまの教えと、仏さまの教えを実践し伝えていく者を、この世の三つの宝物として人生の心の拠(よ)りどころと定め、ゆるぎなき信心の根本とする“信”の戒法です。いいかえれば、仏・法・僧の三宝に帰依して、戒律を守って仏教徒になることを誓うとき、この三帰戒がその人に授けられるのです。

三聚浄戒(さんじゅじょうかい)・円頓戒(えんどんかい)

三聚浄戒とは、いわば仏教徒として、人生の“誓願”の戒法です。この三つの浄戒は、次のような内容のものです。

1. 摂律儀戒(しょうりつぎかい)
身を慎み、常に清浄の心をもって、一切の不善(悪いこと)は、決してしません。
2. 摂善法戒(しょうぜんほうかい)
身を惜しまず、常に清浄の心をもって、進んで善行(善いこと)に励みます。
3. 摂衆生戒(しょうしゅじょうかい)
常に清浄の心をもって、永く世のため人のために役立つことをいたします。

天台宗のいう大乗菩薩戒としての「円頓戒」は、この三聚浄戒とその意味内容は同じと考えられています。

十重禁戒(じゅうじゅうきんかい)

十重禁戒とは、仏教徒の日常生活の規範ともいうべき十ヵ条の“行(実践)”の戒法です。その内容は次の通りです。

1. 不殺生戒(ふせっしょうかい)
生命のあるものを、ことさらに殺すことなかるべし
2. 不愉盗戒(ふちゅうとうかい)
与えられざるものを、手にすることなかるべし
3. 不貪婬戒(ふとんいんかい)(不邪婬戒(ふじゃいんかい))
道ならざる愛欲を、犯すことなかるベし
4. 不妄語戒(ふもうごかい)
いつわりの言葉を、口にすることなかるべし
5. 不酤酒戒(ふこしゅかい)(不飲酒戒(ふおんじゅかい))
酒に溺れて、生業を怠ることなかるべし
6. 不説過戒(ふせっかかい)
他人の過ちを、責めたてることなかるべし
7. 不自讃毀他戒(ふじさんきたかい)
己を誇り、ひとを傷つけることなかるべし
8. 不慳法財戒(ふけんほうざいかい)
物でも心でも、施すことを惜しむことなかるべし
9. 不瞋恚戒(ふしんいかい)
怒りに燃えて、自らを失うことなかるべし
10. 不謗三宝戒(ふほうさんぼうかい)
三宝を謗(そし)り、不信の念を起こすことなかるべし

なお、仏、法、僧の三宝に帰依するとともに、1~5の戒法を守ることを誓うとき、「三帰五戒」がその人に授けられることになります。

授戒(じゅかい)と受戒(じゅかい)──証(あかし)としてのお血脈(けちみゃく)

授戒は戒法を授けていただくことですが、授けるには、授ける人(戒師さま)と、授けるもの(菩薩戒という戒法とその証としての血脈)と、受ける人(戒弟(かいてい))がなければなりません。この戒法授受の儀式を行う集いを「お授戒会(じゅかいえ)」といいます。

達磨大師(だるまたいし)は、授戒の大切な心得として「受(じゅ)とは伝(でん)なり、伝(でん)とは覚(かく)なり、仏心を覚(さと)るを真の授戒と名付く」と教えられています。すなわち、授戒とは、戒師の立場から戒弟に本来具わっている仏心を引き出すことであり、受戒とは、戒弟が戒師さまの教えに随順して、自らが具えている仏心を自覚することです。お授戒により、戒法を正しく受けた証として、戒師さまより「お血脈」が授けられます。

お血脈は、お釈迦さまからの歴代のお祖師さま方、そして戒師さまから戒弟のお名前が朱線で貫かれています。これは、お釈迦さまから戒弟に至るまで、同じ仏さまのいのちが一貫相続されていることを意味するのです。お血脈は戒法を受け継いだ仏さまの系図というべきもので、これを授かることは、戒弟が仏さまのお仲間入りし、その一員となった証なのです。お血脈を授かるとともに、仏の名としての戒名も同時に授かることになります。

お戒名の構成──宗派によって違うお戒名

お授戒会について仏の戒法を受けた人は、仏の弟子となった証としてのお血脈を授与されるとともに、戒法を護持することをお誓いし、入信した仏弟子としての名前、すなわち「お戒名」を項戴します。

僧侶になるときは、師匠となる戒師さまより得度を受けて「安名(あんみょう)」をいただきますが、在家の信者の場合は、菩提寺のご住職を戒師さまとして、お授戒により「お戒名」をいただくのが正式です。

本来、自分自身が尊敬する人生の師としての戒師さまより、仏の戒法を授けられたときにいただく名前が、お戒名です。したがって、戒名は生前授与、すなわち生きているときにお受けするのがほんとうなのです。もちろん自称することには何の意味もありません。お戒名らしい体裁があってもそれは雅号としかいいようがないでしょう。お戒名には必ずお血脈が伴うものであることを知らねばなりません。天台宗、真言宗、臨済宗、曹洞宗、浄土宗でいうお戒名は、まさにこの意味のものです。

一般に、お戒名は次のような構成になっています。

○○院 □□ △△ 居士
○○:院号  □□:道号  △△:戒名  居士:位号
       └──────────┘
         いわゆる四字戒名

聖武天皇のお戒名が「勝満」、光明皇后が「満福」、さらに平安時代に関白(かんぱく)の藤原道長が「行覚(ぎょうかく)」、多田満仲(ただみつなか)が「満慶(まんけい)」であったように、お戒名は古くは二字でした。

しかし、鎌倉時代に禅宗が伝わったころから、禅僧が用いた二字の「道号」が加わり、現在の「国字戒名」が成立します。道号は「表徳号」ともいわれ、主として禅僧が自らの願いとするところや仏道を悟った境地をあらわして号したものです。

たとえば、大阪の義士の寺・吉祥寺にお墓がある、忠臣蔵で有名な赤穂義士の頭領である大石内蔵助良雄(おおいしくらのすけよしお)(一七〇三年没)のお戒名は、“忠誠院匁空浄劔居士(にんくうじょうけんこじ)”と与られています。永平寺三十九世承天禅師は、碧巌録(へきがんろく)の公案(こうあん)「古徳剣匁上(ことくけんにんじょう)」からこのお戒名を授けたとされています。そこで「匁空」を禅僧お悟りの道号とすれば、「徳は剣匁上にあり、空を浄(さと)る忠(ただ)しい誠」がこのお戒名の意味になります。

道号は、もとは中国の皇帝が道教の修行者(道士)に賜った称号でした。今日ではこの道号が一般化して、各宗派の特徴を示しています。

浄土宗の「誉号(よごう)」「蓮社号(れんしゃごう)」

まず浄上宗では、「誉号」というのが用いられます。鎌倉光明寺の三世定慧(じょうえ)上人が、自らを「良誉(りょうよ)」と号したことに始まるといわれています。これは念仏を唱えるものは、人間として最もすぐれた栄誉を担う者であるという信仰上の自負から、誉号を道号としているのです。現在では、浄土宗の信仰に篤い人、特に「五重相伝(ごじゅうそうでん)」といわれる浄土宗の信仰を決定(けつじょう)させる入信の儀式を終えた人に与えられています。先の例では、○○院 □誉 △△ 居士となるわけです。

なお、蓮社号は出家者にだけ付けられるもので、一般の在家信者には用いられません。江戸時代、浄土宗を厚く保護して、実際上わが国の国教とした徳川家康公(一六一六年歿)のお戒名は、安國院殿(あんこくいんでん) 徳蓮社(とくれんしゃ) 崇誉(すうよ) 道和(どうわ) 大居士(だいこじし)です。これは、院殿号 蓮社号 誉号 戒名 位号の順で構成されています。

一般に「何字戒名」という場合、位号まで数えるので、これは「十一字戒名」となり、通例、浄土宗の「七字戒名」「九字戒名」をしのぐ長いお戒名であるということになります。

時宗の「阿号(あごう)」「式号(いちごう)」

阿号(あごう)は、「阿弥陀仏」の略で、○阿というように用います。これは、東大寺再建のための勧進をした重源(ちょうげん)上人が、法然上人の大原談義を聞いて、信心が決定し、自分を「南無阿弥陀仏」と号したことに始まるといわれています。十一世紀頃に浄土教が盛んになるにつれ、出家も在家も、死んだのちに閻魔大王に審判されるとき、必ず仏さまの名が唱えられるようにと、阿弥陀仏号をつける者が多く輩出しました。

能の花伝書で有名な「世阿弥」や大仏師快慶が「安阿弥陀仏(あんなみだぶつ)」と号したことなどがその例です。また、女性には「弌号(いちごう)」を用いて、○弌と名付けて、時宗のお戒名であることを示します。ちなみに「自阿」といえば、宗祖一遍上人、「他阿」といえば遊行上人に限るように、阿号、弌号には允許(いんきょ)がなくては使えないものが数多くがあります。

浄土真宗の「釋(しゃく)(釈)号(ごう)」

浄土真宗は、釋○○というように「釋号」を用います。この釋号は、中国東晋時代の僧、道安(三一二年~三八五年)が、出家して仏弟子となったからには、すべてお釈迦さまの姓を名乗るべきだとして、自らを「釋道安」と号したことに始まるといわれ、親鸞聖人自身も「愚禿(ぐとく)・釈の鸞」と称しています。もっとも、わが国の浄上真宗においては、教義の上から、お授戒という考え方がないので、他宗のような信士、居士、大姉などの位号をつけることはありません。したがって、お戒名とはいわず「法名(ほうみょう)」というのが正しいのです。

たとえば、歌謡史を画する演歌スタイルを確立させた作曲家の古賀政男(一九七八年没)の法名は、大響院釈生楽(だいきょういんしゃくしょうらく)と付けられています。

日蓮宗の「日号(にちごう)」

日蓮宗では、宗祖の日蓮聖人からとられた「日号」を多く用いて大切にします。これは宗祖である日蓮聖人が、明るきこと太陽のごとく、清きこと芬陀利華(ふんだりげ)の如きことを求めたことに由来し、その一字をいただくのですから、よほど教義に精通している篤信の人にしか、本来は付けられないのです。○○院□□日△居上(大姉)と構成します。

ちなみに、歴代の日蓮宗徒である歌舞伎の大御所、片岡家の十世仁左衛門(一八九五年没)の法号は、竜法院南秀日顯居士(りゅうほういんなんしゅうにっけんこじ)です。

また、熱心な法華経信者であった宮沢賢治(一九三三年没)の法号は、真金院三不日賢善男子(しんきんいんさんふにっけんぜんなんし)で、戦後歌謡界の女王と称えられた美空ひばり(一九八九年没)の法号は、慈唱院美空日和清大姉(じしょういんびくうにちわせいだいし)と付けられています。なお、日蓮宗では法華信者は霊山浄土(りょうぜんじょうど)に生まれることが前提となっているため、戒名よりも「法号(ほうごう)」と称することが多いようです。

院号・位号について

院号(いんごう)について

院とは、四角に区切られた場所の意で、わが国では、天皇が譲位したあとの仙洞(せんとう)御所の呼び名に使われてきました。淳和(じゅんな)天皇の御所を「淳和院(じゅんないん)」と称したことがその初めであるといわれています。

嵯峨天皇の「冷泉院(れいぜんいん)」や、後代の「圓融院」「花山院」「二条院」「朱雀院(すざくいん)」などがその例で、さらに時代が下ると、皇族や僧侶の住居、お寺などをも意味するようになりました。

そのような背景から、寺院を寄進した人に対して、お戒名を付ける際に「院号」を授与するようになりました。関白藤原兼家が死んで「法輿院如実」と称されたのが、清華家での院号の初めであるといわれています。

室町時代以降になると、大名や地方の豪族にも与えられるようになりました。このように、院号とは、本来「寺をしょって立つことのできる大人物」に与えられるものです。また、「院」に準ずるものとして、「寺(じ)」「軒(けん)」「斎(さい)」「庵(あん)」号などもあります。

寺号は寺の建立者やこれに準するもので、京都にのぼる途上、桶狭間(おけはざま)で織田信長の急襲により敗死した今川義元(一五六〇年没)は、「天澤寺秀峯哲公(てんたくじしゅうほうてっきん)」。奥州の雄・独眼竜伊達政宗(一六三六年没)は、「東光寺儀山圓孝(とうこうじぎざんえんこう)」と付けられています。
軒号は、屋号、雅号の類が多く、東海道一の大親分といわれた清水の次郎長(一八九三年没)は、「碩量軒雄山義海居士(せきりょうけんゆうざんぎかいこじ)」となっています。
斎号は部屋、転じて書斎、居間の意で、多くの医者、芸術家に与えられました。幕末の西洋医として活躍した萩藩医、青木周弼(しゅうすけ)(一八六三年没)の戒名は「養拙斎誠譽月橋居士(ようせつさいせいよげっきょうこじ)」。狩野派(かのうは)の画家として「近江百景」を描いた探幽(たんゆう)の父・寛信(ひろのぶ)(一八一五年没)は、「青梧齋融川寛信日行大居士(せいごさいゆうせんかんしんにちぎょうだいこじ)」となっています。
庵号は、大寺に属した建物、草庵、茶室の意です。世界に禅の哲学を広めた鈴木大拙(だいせつ)博士(一九六六年没)は、「也風流庵大拙居士(やふうりゅうあんだいせつこじ)」と付けられており、子規の高弟、高浜虚子(一九五九年没)のお戒名は、「虚子庵高吟椿寿居士(きょしあんこうぎんちんじゅこじ)」となっています。

このほかにも、「房」「舎」「堂」「園」などがあり、いずれも場所、空間、処をあらわして院号に次ぐものと考えられてきました。このように院号が、仏教の保護者や篤信者に限って、それを顕彰する意味で付けられたという歴史的背景があるにもかかわらず、現代では院号が一般化してきています。

昨今、一個人が寺院を寄進するということは、まずあり得ないでしょう。そこで、現代における院号授与の判断基準が必要となってきます。松本慈恵氏は、その著「戒名のはなし」で、次の四つの条件を目安に考えるべきだとされています。

すなわち、院号が仏弟子に対する顕彰の意味を持つものであることから考えて

1. お寺への奉仕の度合い(普段のきちんとした付き合いの度合のことで金品に限ったことではない)
2. 教養や文化的な貢献度
3. 宗門ならびに社会的な地位(その宗門における護持会の役員もしくは菩提寺のお世話役など。さらに会社や生業の組合・団体などでの地位や国家・社会・地域などへの貢献度)
4. 財力
以上四つの条件が、「院号」に値するかどうかの目安になるとされているのです。

もちろん、これらすべての条件を満たしている必要はありません。財力がなくても仏教の教えを守り、徳望の高い人には授与されてしかるべきだと考えられます。教義の上からは、本来存在するのが不思議な浄土真宗における院号は、十六世紀に本願寺十一世の顕如(けんにょ)(一五四三年~一五九二年)が勅によって、「院家」に列せられてから以降に、称するようになったものです。現在でも本山からの許しがあって、初めて使われるようです。

院殿号(いんでんごう)

院殿号は、延文三年(一三五八年)、足利尊氏(たかうじ)が没するや「等持院殿(とうじいんでん)」と称したのに始まります。以後、歴代の将軍もこれに倣って院殿号を冠しました。特に江戸時代には、大名に限られるほどで、院殿号の権威はますます高まっていったのです。

「殿」を「院」の下に付けたのは、皇室や摂家と区別して、謙譲するためだったのですが、江戸時代になると、院号よりも院殿号が上位になっていきました。これが戒名にもつながっていて、院殿号の尊称となるわけです。

“こより十一面観音像”を、大坂天満、川崎東照宮の境内にあった観音堂のご本尊として寄進した亀姫(一六二五年没)には、盛徳院殿香林慈雲大姉(せいとくいんでんきょうりんじうんだいし)と院殿号が贈られており、この姉の亀姫に、寄進の上意を発した弟の二代将軍秀忠(ひでただ)は、臺徳院殿興蓮社徳譽入西大居士(たいとくいんでんこうれんしゃとくよにゅうさいだいこじ)と同じく院殿号のお戒名が付けられています。

位号について

現代は、お戒名やご法号の末尾に尊称を付けるのが一般的です。昔は身分によって付けられていましたが、現在では、その人の信仰の深浅や、宗門や社会・文化・寺院への貢献度などによって選ばれています。

1. 居士(こじ)と大姉(だいし)

経典に出てくる代表的な居士として、「維摩居士(ゆいまこじ)」の名をあげることができます。維摩はインドのビシャリ城中に住む大富豪で、世俗の生活をしながらも仏教の蘊奥(うんのう)を極め、また、政治や法律にも明るく、街中の誰彼からも尊敬を集めていました。居士とは本来インドの商工業者で、富豪、資産家の者を指し、仏教特有の言葉ではなかったのですが、次第に仏教内部の尊称として使われるようになりました。

『祖庭事苑(そていじえん)』には、「一に士官を求めず、二に寡欲(かよく)にして徳を積み、三に財に属居して大いに富み、四に道を守って自ら悟る」──この四つの徳を兼ね備えている人を「居士」というとあります。この記述からして、元来中国や日本では「官途に就かず、清心、寡欲の人」を居士と呼んでいました。現在では、信士よりも仏教への信心が深く、仏教を現に実践して人徳を備え、誰からも尊敬されている人、すなわち「在家の仏道修行者」に対する尊称として「居士号」が授与されています。

大姉(だいし)は、古来、比丘尼(びくに)(女性の出家僧)を意味する言葉でしたが、のちに在家の仏道修行者としての尊称として、男性に「居士号」が付けられるに及び、女性の有徳の信者にもその釣り合いの上から、居士と同格の尊称として「大姉号」が授与されるに至りました。

なおこの上、さらに上位をあらわす尊称として「大居士(だいこじ)」「清大姉(せいだいし)」の位号があります。

2. 信士(しんじ)と信女(しんにょ)

信士、信女は、優婆塞(うばそく)(ウパーサカ、男性の信者)、優婆夷(うばい)(ウパーシカー、女性の信者)の訳語で、仏の教えを信じ、定められた戒法を守っている在家の信者という意味です。

これを尊称としてお戒名の末位に付加するのです。現在では、出家せず、普通の社会生活を行っている在家の人で、三帰戒、三聚浄戒、十重禁戒などの戒法を守って、精神的にも、社会生活の面からも、清潔で信心深い生活を送っている人に対して一般的に「信士、信女」の尊称が広く授与されています。「善男子、善女人」「清信士、清信女」の言葉も以前にも見受けられたのですが、現在では、有戒の人にも、無戒の人にも、「信士、信女」の位号が付けられています。

3. 童子(どうじ)と童女(どうにょ)・その他

童子と童女号は、昔でいう元服前の子供ということなので、現在ではだいたい四歳から十五歳ぐらいまでの未成年男女に対して付けられます。童子という尊称は、不動明王の制咤迦(せいたいか)童子、矜羯羅(こんがら)童子、あるいは昆沙門天の子供である禅賦師(ぜんにし)童子、文珠菩薩に従っている善財(ぜんざい)童子といったように、本来は仏や菩薩、諸天に仕える人たちを指していました。

また、童子より年齢の幼い児の場合、二、三歳ぐらいの子供には「孩児(がいじ)(子)・孩女(がいにょ)」を、生まれたばかりから一歳ぐらいまでの乳飲子(ちのみご)には「嬰児(えいじ)・嬰女(えいにょ)」を付けます。

なお「水子(すいし)」(みずこ)は、男女の区別をせず、死産あるいは流産を含めた胎児について用いています。

そのほか、「禅定門(ぜんじょうもん)・禅定尼(ぜんじょうに)」号が、主として浄土宗において、「五重相伝」を受けた人に限って用いられています。これは仏門に入って剃髪(ていはつ)し衣(ころも)を着けた男性を禅定門士、女性を禅定門尼というのを略したものです。

お戒名の現在的意義

生前の授戒

すでに述べたように、現在、わが国の仏教では、院号や位号を含めて、いわゆるお戒名に対する認識が宗派によって違っています。たとえば、院号については、天台宗独特の心院号はさておき、真言宗、浄土宗、禅宗系では、たいへん重く扱っています。他方、位号については、居士・大姉についてあまり重く考えないで授与しています。ところが、日蓮宗ではむしろ居士・大姉の位号のほうに重きがおかれ、院号についた信士・信女が一般的にみられるのです。さらに浄土真宗では、お授戒という観念を持たないので、戒名とは言わずに法名と言い習わしているくらいです。

しかし、このような差異も、仏教に帰依した仏弟子としての名前“仏名”であるという点では一致します。その意味では、キリスト教徒が生前洗礼を受けて授かるクリスチャン・ネームと同じです。お戒名を、尊敬する師と仰ぐお坊さまから、授戒・灌頂・得度などの儀式を受けていただくことは、その日から、仏教徒としてその名に恥じない日々の生活を送ろうとする決意と、日々の感謝と反省、さらに謝恩の実践行(ぎょう)を喚起することになるでしょう。

禅宗などの宗旨によっては、先に述べたように「お授戒会」を修して、戒を誓い、そこで戒名を授けていただくという儀式が行われていますが、これが本来のあり方です。このように生前中にいただくお戒名のことを、「安名(あんみょう)」(得度した修行僧に与える場合)もしくは「逆(ぎゃく)(予(よ))修名(しゅうめい)」などといいます。

私の友人で、生前授戒を受けた人が、いつも自分の姓の下に俗名を書かずに、そのとき授かった二字戒名である「正覚」を手紙などに使っている方がおられます。在家の仏教徒として、お戒名の意義を正しく理解されている一例でしょう。

没後作僧(もつごさそう)

しかし普通一般には、人が亡くなると、葬儀のときにお戒名が授けられます。これは、在家つまり一般の人に対しては、「没後作僧」といって、お坊さまの引導により戒律を受けさせて仏弟子となし、お戒名を授けていただくのです。そうした意味で、葬儀とは、死者を出家させ、あの世で修行を積んでくださいという願いの儀式であるともいえるのです。棺前において、そのご霊前に向かって、導師により、戒が授けられることになります。

死を境(さかい)にして名前を変え、仏弟子となった印(しるし)に、お戒名をもつという考え方は、仏教本来の考え方とは別に、おそらく日本人的な言霊信仰も密接に関連していると考えられます。短い片言隻句の中に、その人の数十年に及ぶ人生そのものが物語られ表現されているのです。お戒名を見つめることは、その人物の全体像と向き合い対話することであり、それを授けられた戒師さまを通して示される、尊い仏法に出会うことでもあります。仏事法要において回向させていただくことは、そのお戒名にふさわしい仏さまに成仏されることを、至心に願うことでもあるのです。

ちなみに、映画「太陽の季節」でデビューして新しい青春像を打ち出し、最大の人気スターとなった石原裕次郎(一九八七年没)のお戒名(曹洞宗)は、「陽光院天真寛裕大居士(ようこういんてんしんかんゆうだいこじ)」と付けられています。院号の「陽光」は「太陽の季節」を引いてその輝きをあらわすとともに、彼自身の太陽のような生き方、自分自身が燃えるとともにその力で周囲をも暖め尽くすという生涯を仏陀の陽光として顕彰したものです。道号の「天真」は、天真爛漫な天性の明るさと才能を示すとともに、禅の悟りをあらわしています。お戒名「寛裕」は、本名の実字「裕」をとって度量の大きいエネルギッシュな人柄を表象しています。

このようにお戒名とは、故人の生涯を世間の尺度だけで量るのではなく、仏の眼を通して評価して、その浄福を願ったものなのです。

たとえ死後であっても、広い意味での「お授戒」を修することによって、そこから仏道修行に励むことを誓わせ、その発心功徳によって、お釈迦さまの大慈大悲に抱かれて成仏できると説くのが仏教です。したがって、自称するのはまったく意味をなさないのみならず、こちらから「居士」だの「院号」だのと要求すべきものではありません。普段からお寺ときちんとしたお付き合いをしておくことが大切でしょう。

ご朱印(しゅいん)──巡拝のすすめ2

霊場へお参りするには、遍路としての心構えをもった御本尊礼拝(らいはい)のお作法があります。深い信仰が全国に充ち溢れていた時代、私達のご先祖さま方は、宗旨宗派を問わず必ずお写経をして霊場に納め、み仏のご加護を念じて来ました。霊場は霊跡であり、霊(みたま)を鎮(しず)める聖域です。お参りされると必ず納経所(のうきょうしょ)があります。ご本尊さまへの納経参拝を終えて、納経所でその旨を申し出ますと、その証果(しょうこ)としてご朱印がいただけるのが例です。これは1霊場印、2御本尊印、3寺印の三印から成るその霊場の実印で、この得難いご宝印をいただいた瞬間、参拝者とご本尊さまとの間には、確固たる信仰上の契約ともいうべきものが成立するといわれています。従って、受ける参拝者も授けるお寺さまも、共に合掌し合って報恩の誠を捧げるのです。これらのお作法は、何ら宗旨宗派に拘束されて人為的に定められたものではなく、昔より連綿と続いた至純な心で巡拝するお遍路さん達による霊場信仰の結晶として、自然に港き出て来たものです。ガンジスの流れが数千年の太古より悠久(ゆうきゅう)として、今もなお流れ続けているように、この霊場への納経巡拝は、必ずご先祖さま方がそうであったように私達にもまた素晴らしい、み仏やご先阻さまとの出会いを約束してくれることでしょう。

合掌
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