先祖を祀る

死後の世界

東光院萩の寺住職 村山廣甫

上記の問いに対する釈尊の答えとしては、有名な毒矢の譬(たと)えがあります。「ここに毒矢で射たれた男が居る。友人たちが心配して医者を連れて来て治療しようとしたとき、その男が“待て!この毒矢を抜いてはならない。矢を射た奴が誰なのか、背は高いか低いか、色は黒いか白いか、毒の成分は何なのか、それらが分からない限り、絶対にこの矢は抜かせない”と言っている。このままではこの男は死んでしまうだろう。今、大事なことは毒矢を抜いて治療することである。現在の苦しみをしっかり克服することが大切なのだ。死後の世界のことだとか、宇宙は有限か無限かなどの哲学的内容を考えて、今をおろそかにするようなことがあってはならない」と。つまり、死後の世界については“ある”とも、“ない”とも答えられませんでした。これを仏教では、“捨置記(しゃちき)”すなわち捨て置いた事柄と呼んでいます。仏教には十四の捨置記があります。

およそ世界宗教とされる普遍の教えでは、死後の世界だけでなく、今より以後の他界については、一般的に捨置記であるのが基本です。キリスト教では「明日のことを思い煩うな。今日一日の苦労は今日一日で足れり」としていますし、イスラム教も「おまえたちは、“私は明日これこれのことをする”といってはならない。“もし神が望みたもうならば(イン、シャー、アッラー)私はこれこれのことをします”と言いなさい」と。明日以降のことはすべて神の領域に属することとしているのです。

「過去を追うな。未来を願うな。過去はすでに捨てられた。そして未来は未だやって釆ない。だから現在の事柄をそのあるところに観察し、揺らぐことなし。よく見極めて、ただ今日なすべきことを熱心になせ。誰か明日の死のあることを知らん」と、釈尊は説いておられます。このように仏教では死後の世界のことについては、“エポケー”すなわち“判断中止”―――一切考えるなとしています。

ところが、このような仏教の基本的態度である禅のいう「莫妄想(まくもうぞう)」――人智の及ばぬことに思い煩ってはならないということを説かれても、一般民衆はついつい不安になってしまいます。そこで、極楽浄土の教えが説かれるのです。「浄土を信じる」ことで“ある”か“ない”かの問題に思い煩うことなく、今やるべきことをしっかりやる強い心を養うのです。だから「浄土を信じること」は、しっかり生き遂げていく上で必要であり、人智の及ばない問題に対する心配を防ぐ、「判断中止のための信」なのです。浄土を信じることで、死後の世界を思い煩うという無駄を省き、今、ここに生きる強い心を養っていくのです。

浄土を信じることは、明日を信じることです。人は死んだら仕舞いだと判断するのではなく、その来世を信じるのです。明日が“ある”か“ない”かについて、その判断を中止して、明日を“信じる”か、“信じない”かを問題としましょう。明日を信じないで今日を力いっぱい生き遂げることはできません。明日を信じ、来世を信じる人は、今、ここに、一月一日を人安心をもって力いっぱい生き遂げていくことができます。どうぞ勇気を奮って、ご先祖を信じ、まずやれることから始めようではありませんか。

合掌
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